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東京高等裁判所 昭和28年(を)4号の2 判決

財団法人理事長 栗栖赳夫

元参議院議員、大蔵大臣経済安定本部総務長官

明治二十八年七月二十一日生

主文

被告人を懲役八月に処する。

原審における未決勾留日数中三十日を右本刑に算入する。

但し、この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

被告人から金百五十万円を追徴する。

原審における訴訟費用中証人河本文一及び同宗知武に支給した分は、被告人と原審相被告人武田要輔との連帯負担とし、当審における訴訟費用中証人河本文一及び同内野健治に支給した分は、被告人の負担とする。

本件公訴事実中、被告人が、日野原節三から昭和二十二年四月初頃現金十万円を、同人から同年九月頃現金三十万円を中内幾太郎から同年九月二十三日頃現金二十万円を、同人から同年十二月上旬頃現金三十万円を、同人から昭和二十三年二月二十八日頃現金三十万円を、小沢専七郎から昭和二十二年十二月下旬頃現金五十万円を、梅林時雄から昭和二十三年一月中旬頃現金三十万円を各収賄したとの点は、いずれも、無罪。

第三判決理由の要点

一  有罪部分の理由

(一)  認定事実

被告人は、山口県岩国市に生まれ、大正十年東京帝国大学法学部を卒業して日本興業銀行(以下興銀と略称する)に就職し、昭和二十年十二月興銀理事となり、昭和二十一年六月貴族院議員に勅選され、昭和二十二年四月二十日新憲法の実施に備えて初めて施行された参議院議員選挙に、興銀理事在職のまま、山口県地方区から立候補して当選し、新憲法施行の日たる同年五月三日以降参議院議員を兼ねるに至り、次いで、同月十三日興銀総裁となり、同年六月二十五日片山内閣の国務大臣に任じ大蔵大臣を命ぜられ、昭和二十三年三月十日芦田内閣が成立するまで、右大蔵大臣として在任し、政府の財務を総轄し、一般金融及び銀行に関する事務を管理し、興銀、日本勧業銀行(以下勧銀と略称する)、農林中央金庫(以下農中金と略称する)、復興金融金庫(以下復金と略称する)その他の特殊金融機関に対する監督事務等を管掌していたが、右芦田内閣の成立に際しては、改めて国務大臣に任じ経済安定本部総務長官を命ぜられ、同年十月二日これを辞任したものである。

他方、原審相被告人武田要輔(以下武田と略称する)は、山口県厚狭郡厚狭町(現在の山陽町)に生まれ、大正十二年頃から、父のあとを継ぎ、同町において家業の畳製畳販売業に従事していたものであるが、昭和九年これを会社組織に改め、防長製畳株式会社を設立してその社長となり、昭和十五年その商号を日本畳工業株式会社と変更し、昭和十六年その本店を東京市日本橋区(現在の東京都中央区)に移し、昭和二十一年一月その商号を日本建材工業株式会社(以下日本建材と略称する)と変更し、事業範囲の拡張や増資を行い、事業の発展に努めたが、また、別に、昭和二十一年七月観光事業等を目的として、東京都中央区に本店を置く武田興業株式会社を設立してその社長となり、昭和二十二年四月その商号を東洋観光興業株式会社(以下東洋観光と略称する)と変更し、その事業の発展に努めていたものである。

被告人は、昭和二十一年春頃、武田の旧友で、被告人とも知合の間柄にあり、当時衆議院議員であつた山口県出身の細迫兼光や被告人の親友で、元興銀における同僚であり、当時石産金属株式会社の社長であつた同県出身の貞永敬甫の斡旋で、武田から他の同郷人とともに、同郷の先輩たる興銀理事として、武田所有の別邸である東京都港区麻布の清風園に招待されて会食したことがあり、被告人が前記参議院議員選挙に立候補した際には、貞永を通じて武田に依頼した結果、山口県の厚狭方面の選挙運動について武田の援助を受けたこともあつたが、大蔵大臣に就住以来、予期しなかつた政治資金を必要とするに至つたので、その就住の際、貞永が、できる限りの援助をすべき旨を告げて被告人を励ましたことを想い起し、昭和二十二年十月下旬頃貞永に金百五十万円程度の政治資金の調達を依頼したところ、貞永は、被告人のためかかる政治資金を出捐し得る者は、自己の周囲には武田以外にはないと考え、被告人にも、武田に依頼する意図を告げたのであつたが、当時、武田が被告人の人物をさほどよく知つているとは思われなかつたので、かねて自己と親交があり、被告人とも親密な間柄にある当時山一証券株式会社(以下山一証券と略称する)の副社長であつた大神一の協力を得ることとした。もともと、貞永は昭和十二年中興銀広島支店次長であつた当時、細迫兼光の紹介によつて武田を知つたものであつて、その際、武田から依頼されて、同銀行支店から、日本建材の前身たる防長製畳株式会社に融資したため、同会社は、その規模を拡充して、発展の基礎を固めることができたものであり、大神は、昭和二十一年頃貞永から紹介されて武田を知つたものであるが、昭和二十二年夏頃、山一証券の専務取締役であつた当時、日本建材及び東洋観光の株式の公開に当つて、武田から依頼されて山一証券においてその株式公開に関する事務を取り扱つたため、両会社は、世人から認識されてその規模を拡大し、飛躍的に発展することができたものであつて、かかる関係から、貞永としては、大神と両名で、武田に対し被告人の政治資金の出捐を懇請すれば、武田においてもこれを承諾するに至るものと信じていたのである。かくして、貞永は、大神と相談の上、昭和二十二年十一月初頃、武田に対し大神から被告人の人物について説明した上、両名から、こもごも、被告人のための政治資金として総額百五十万円を出捐されるように懇請した。当時、日本建材は、炭鉱労務者用住宅、戦災者復興住宅用の畳の需要が多かつた上に、同年九月中関東地方を襲つたキヤザリン台風による水害を受けた農家等に供給するため関係官庁等から大量の畳の注文を受け、これがため、少からぬ資金を必要としていたときであり、また、東洋観光も、事業の性質上、資金が固定し、金融機関からの融資順位も他の重点産業よりも劣位に置かれ、一般市中銀行からの融資は望み得ない状況にあつたので、会社経営のための資金操作の必要上、武田個人の手許にも、余裕金のないときであつたから、このような政治資金の出捐は、武田にとつては好ましいことではなかつたが、武田は、貞永、大神の両名からは、前記のような恩顧を受けているので、同人らの懇請を拒むことができなかつたのと、内心、右政治資金出捐の申出に応ずれば、将来、自己の事業経営上、被告人から、資金面におけるなんらかの世話を受けることもできようとの期待を抱いたため、この政治資金出捐の申出を承諾した。

これよりさき、日本建材は、昭和二十二年夏頃、勧銀に、事業資金の融資を申し入れ、その後、書面による申込手続を経て、審査の結果、同銀行では、同年十一月二十五日日本建材所有の埼玉県上尾工場の工場財団を担保として金三百五十万円、同年十二月十二日武田所有の建物等を担保として金二百万円の各融資を実行したのであるが、その間に、日本建材は、同年九月中関東地方を襲つた前記台風による水害を受けた地域の官庁等から、被害地の農家等に供給するため、大量の畳の注文を受け、その材料の買付のため多額の資金を必要とするに至り、新たに融資を求めなければならない情勢となつた。たまたま、同会社の姉妹会社たる東洋観光は、その前身たる武田興業株式会社において、昭和二十一年九月中、勧銀からアパート一棟その他の不動産を担保として融資を受けていたところ、その後の物価の上昇により、右担保不動産は、当初の評価額よりもかなりの増加を来たしていたので、担保価値に少からぬ余力を生じ、また、日本建材のため担保に供せられた前記工場財団にも余力があるものと信じていた武田は、これらを担保として勧銀に借増を求めることとし、昭和二十二年十一月頃日本建材から勧銀に対し、口頭をもつて、これらを担保として更に金千五百万円の借入の申入をし、その交渉をしたが、実現の見込が得られなかつたので、武田は、その頃、貞永を通じて被告人に右融資の斡旋を請託した。被告人は、これを承諾して、同年十一月二十四日、たまたま、勧銀にその総裁西田太郎を訪れた際、同総裁に対し、右融資の見込について尋ねたところ、同総裁から、同銀行の資金の不足を理由に実現の困難な旨を述べられたので、成立の見込のないことを察し、そのまま退出した。結局、勧銀への右融資の申入は、成功しなかつたが、武田は、同年十二月頃、貞永から、当時農中金に余裕金があることを聞知したので、同人及び日本建材の重役らと相談の上、前記所要資金は、水害を受けた農家に供給すべき畳の材料を購入するためのものであつて、この畳の材料は、農家から購入するもので、その代金は、農家に支払われるのであるから、農中金にこの融資の申込をしようと考え、同年十二月下旬頃、貞永を通じて被告人にその融資の斡旋を請託した。被告人は、これを承諾し、農中金理事長湯河元威に貞永を紹介するとともに、その頃たまたま大蔵大臣官邸を訪れた湯河と面談した際、同人に、右融資の実現について配慮されるように依頼した。他方、武田は、同年十二月下旬、貞永及び日本建材の常務取締役吉瀬文雄らとともに、農中金を訪れ、湯河理事長にも面接して、会社の事業や融資を求める事由を説明して融資を依頼し、その頃から、右吉瀬らと農中金の係員との間に、右融資についての交渉が開始されるに至つた。かくして、日本建材は、翌昭和二十三年一月十日付書面をもつて、前記水害罹災者に供給するため緊急出荷を要する畳六万枚の原資材の購入資金として、金千五百万円の融資を申し込み、農中金においては、同月十五日付書面をもつて、農林中央金庫法第十五条第一項第五号による業務上の余裕金の運用として、右融資について、主務大臣たる農林大臣及び大蔵大臣の認可を申請し、同月二十二日その認可を得たので、同月二十三日日本建材に対し金千五百万円の融資を実行した。

一方、武田は、被告人に対する政治資金の出捐の約束を履行するため、その資金を調達する一方法として、東京都中央区日本橋横山町にある武田個人の所有部分と日本建材の所有部分とからなる焼ビル等を売却しようと考え、昭和二十三年一月十三日勧業不動産株式会社の仲介により山田紙業株式会社との間に、これを同会社に、代金を二百十万円とし、手付金兼内金として百万円を即時受領し、残金は同月二十五日までに所有権移転登記手続完了と同時に支払を受けることとして売り渡す契約を結び、即時手付金兼内金として百万円を受領し、残金百十万円は、同月二十三日買主から仲介者たる勧業不動産株式会社に預けられ、翌二十四日右不動産の所有権移転登記を経由した上、同月二十五日頃これを受領した。

右取得代金中、約金三十二万円は、日本建材の分、約金百七十八万円は、武田個人の分であつたが、当時、日本建材は、増資後であり、かつ、次期増資に備えて、株式の価格を維持する必要があつたので、右取得代金は、すべて、その都度、右株式価格維持のためのいわゆる株式の挺子入に使用された。

ところが、右代金中最初に支払われた金百万円が右株式の挺子入に使用されたのち、同年一月半頃、武田は、被告人から、貞永を通じて、現実に前記約束の政治資金の出捐を求められたが、当時手許に余裕金がなかつたため、若干の日時の猶予を乞うていたところ、同月二十三日日本建材が農中金から金千五百万円の融資を受けることとなり、資金の操作に明るい見通しが持たれるに至つたので、武田は、単に被告人の政治活動を援助する趣旨だけではなく、被告人が右会社に対する勧銀や農中金からの融資についての前記各斡旋の請託を承諾して農中金からの融資について前記のような尽力をしたことに対する謝礼の趣旨をも含めて、右金員を被告人に贈ろうと考え、

(1)  右昭和二十三年一月二十三日、日本建材の預金中から、自己への仮払の形式で現金五十万円を用意させた上、東京都中央区日本橋堀留町二丁目八番地一日本建材本店社長室において、武田からの通知により、被告人に命ぜられて金員を受け取りに来た大蔵大臣秘書官三ツ本常彦に対し、右趣旨の下に、右現金五十万円を交付し

(2)  同年二月十日頃、同様日本建材の預金中からあらかじめ現金五十万円を用意させた上、右同所において、被告人に命ぜられて金員を受け取りに来た右三ツ本常彦に対し、右の趣旨の下に、右現金五十万円及び同年二月十日付武田要輔振出、株式会社帝国銀行堀留支店宛金額五十万円の小切手一通を交付し

たのであるが、被告人は、右のような趣旨の下に贈られるものであることを知りながら、右のように三ツ本常彦に、武田から右各現金及び小切手を受領させ、もつて、大蔵大臣たる自己の職務に関して賄賂を収受したものである。

(二)  被告人及び弁護人らの主張に対する判断

(1)  本件は芦田内閣を倒壊させるために利用された政治的陰謀に基く事案であるとの事実は、これを認めることはできない。

(2)  本件には、憲法第七十五条及び第五十一条に違反する点があるとは認められない。

即ち、

(イ) 芦田内閣の国務大臣であつた被告人が、内閣総理大臣芦田均の同意なくして、昭和二十三年九月三十日東京地方裁判所裁判官の発した逮捕状の執行により逮捕され、即日同裁判所裁判官の発した勾留状の執行を受け、同日以降同年十二月一日まで東京拘置所に勾留された点については、憲法第七十五条の「訴追」には、逮捕、勾引、勾留のような身体の拘束の意味を含むものとは、解し得ないのであるから、右逮捕及び勾留を目して同条に違反するものということはできない。

(ロ) 検事が被告人の衆議院における発言を記載した衆議院の会議録の抄本を公訴を維持する資料として原審公判に提出した点については、憲法第五十一条は、両議院の議員が、各その議院で行つた発言等そのものを対象として、院外において民事、刑事責任を問われることがないとの趣旨を表わしたものと解せられるのであつて、議員の院内における発言を証拠としてその議員の院外における犯罪行為を処罰することまでも禁止したものとは解することができないばかりでなく、右衆議院の会議録に顕われた被告人の発言は、国務大臣としての発言と解せられ、参議院議員としての発言とは認められないものであるから、検事の右行為を目して同条に違反するものということはできない。

(3)  大蔵大臣が、特定の事業者のために、金融機関からの具体的融資について、仲介、周旋、斡旋(以下斡旋等と略称する)や依頼、口添(以下依頼等と略称する)等の行為をすることは、大蔵大臣が、銀行法等の法令によつて、金融機関に対し、広汎にして強力な監督権を有し、一般的に融資の制限又は禁止をなし、個々の具体的融資についても、ある程度の命令をなし得る権限を有し、従つて、事後的には個々の融資の適否について監督しあるいは命令し得る立場にあるので、一般の第三者がする場合と比較して、更に強い影響力を有し、当該金融機関の決定に重大な影響を及ぼすおそれがあり、ひいては、これに関する同大臣の適切な監督権の行使に支障を来たすおそれがあるのであるから、右大蔵大臣の斡旋等や依頼等の行為は、その職務行為自体ではないが、これと密接な関係がある行為であつて、刑法の賄賂罪の職務に関する行為であると解すべきである。しかし、斡旋等及び依頼等については、その行為がなければその融資は成立しなかつたであろうという因果関係があるとかその他その行為が直接にその融資の成立に影響したと認められることを必要とせず、また、その融資が不成立に終つたとしても、斡旋等及び依頼等の行為が成立するものと解せられるのであつて、要するに、斡旋等及び依頼等の行為が成立するためには、一般的、客観的に融資の成立を容易ならしめる性質を有する行為があれば充分であり、従つて、行為の性質上融資に影響を及ぼす可能性を有するだけで足り、確実にその融資の成立に影響を及ぼしたことは必要ではないのである。

以上の場合と異なり、大蔵大臣と特定の事業者との間に金融機関からの融資に関連して金銭その他の利益が授受された場合であつても、それが具体的融資に関するものではなく、漠然たる将来の融資の斡旋等や依頼等について期待に関するものに過ぎないときは、具体的融資についての斡旋等及び依頼等の行為を期待しているものとは解することができないから、斡旋等及び依頼等の行為の対価として金銭その他の利益か授受されたものとはいえず、このような場合には、融資の決定に影響を及ぼすべき大蔵大臣の斡旋等や依頼等の行為がないのであるから、融資に関する監督権の行使に支障を来たすおそれがあるものとは解せられず、従つて、大蔵大臣の職務行為と無関係ではないとしても、これと密接な関係がある行為であるとすることはできない。それ故、この場合には、賄賂罪は、成立しないものというべきである。

二  無罪部分の理由

(一)  被告人が興銀理事として日野原節三から昭和二十二年四月初頃現金十万円を収賄したとの公訴事実に関する判断

被告人が当時日本水素工業株式会社(以下日水と略称する)の社長であつた日野原節三から現金十万円を受領したことは、これを認めることができるのであるが、その経緯は、次のとおりであつて、右金員は、賄賂とは認められない。即ち、

右金員が授受された日時は、昭和二十二年三月二十日頃であつて、公訴事実に示されたように日野原節三が昭和電工株式会社(以下昭電と略称する)の社長に就住したのちである同年四月初頃ではなく、右金員の趣旨は、同年四月二十八日施行の参議院議員選挙に、興銀理事在職のまま、山口県地方区から立候補した被告人に対し、日水の社長であつた日野原節三が、被告人との従前からの交際関係に基き、貞水敬甫、渡辺淳ら興銀関係者らから、被告人に右立候補の意思があることを聞知し、興銀の再建のため、被告人の右立候補を歓迎し、被告人が選挙で苦戦していることを聞いたので、被告人の選挙資金の一部として、昭和二十二年三月二十日頃、被告人の当時の自宅を訪問して、いわゆる陣中見舞として贈与したものであつて、右三月二十日頃は、日野原が昭電社長の後任者として内定した同月二十四、五日頃の数日前であり、日野原は、日水及び昭電の融資について被告人になんら依頼したことはなく、興銀理事たる被告人から、日水に対する融資について、職務上の取扱を受けたことの謝礼の趣旨、昭電に対する将来の融資について職務上便宜の取扱を得たい希望の趣旨又は昭電社長就任について職務上尽力を受けたことの謝礼の趣旨を含んでいなかつたものであり、右金員の贈与を受けた被告人も、日野原から、これを単なる陣中見舞として受領したもので、被告人は、右金員を、興銀理事として日水及び昭電に対する融資について、職務上の取扱をし又は将来職務上取り扱うこととはなんらの関係のない金員として受領したものである。

以上のとおり、被告人は、右金員を興銀理事たる自己の職務行為につき受領したものでないのはもとより、これと密接な関係がある行為につき受領したものでもなく、従つて、被告人の右職務に関し受領したものではないから、被告人の右行為は、経済関係罰則ノ整備ニ関スル法律第二条第一項の収賄罪を構成しない。

(二)  被告人が大蔵大臣及び復興金融委員会(以下復金委員会と略称する)会長として日野原節三から昭和二十二年九月頃現金三十万円を収賄したとの公訴事実に関する判断

被告人が当時昭電社長であつた日野原節三から現金三十万円を直接に受領した事実は、これを認めることができず、昭和二十二年八月下旬か九月上旬、右日野原節三が、興銀副総裁であつた二宮善基に対し、現金三十万円を交付し、右金員がその頃二宮から大蔵大臣秘書官であつた三ツ本常彦に交付され、被告人は、その頃、大蔵大臣官邸で、右金員を受領した事実を認めることができるに止まるのである。そして、その経緯は、次のとおりであつて、右金員は、賄賂とは認められない。即ち、

(1)  二宮は、三ツ本とは極めて親密な間柄であり、同人を興銀の秘書課長から大蔵大臣秘書官に転出させるに当つては、当時の興銀総裁岸喜二雄らと相談するとともに、秘書官になることを好まなかつた三ツ本に対し、個人的にも転出を勧め、秘書官として困ることがあれば、何なりとも相談に応ずるといつたことがあるが、右秘書官就住後しばしば、興銀に出入りしていた三ツ本から、昭和二十二年七月頃から、三、四回にわたり、大蔵大臣の交際費が少ないため、官邸の宴会費等の支払が滞り、被告人がその金を渡してくれないので困るという愚痴話を聞き、その未払金額が二、三十万円にも達することを知つたので、同人の立場に同情し、同人の窮状を救うため、金員を調達しようと考えていたところ、同年八月頃、自己の親友の一人である日野原が興銀に訪ねて来たので、日野原に対し、雑談の際に、二、三十万円という金額を明示し、右三ツ本の窮状を話した上、銀行としては、三ツ本君本人が行きたくないのを出したので、僕も立場上なんとかしてやらなければならないと思つていると告げたところ、日野原は、右の事情を諒知して、右金員の調達を引き受け、その一、二日後の同年八月下旬か九月上旬、自己の秘書砂原季也をして現金三十万円を興銀に持参させて二宮に届けさせ、二宮は、これを受領したのである。

日野原が出捐した右金員の趣旨としては、右二宮の話を聞いた結果、親友である二宮をして、前記三ツ本の窮状を救うための資金に充てさせようとの意図が最も強いのであるが、興銀副総裁で、金融界における有力者であつた二宮との人的結合を一層緊密にすることによつて、財界における自己の将来の発展に資せんとする意図も含まれていたものであり、また、右金員は、二宮のために出捐したものではあるが、それは、二宮が三ツ本の前記窮状を救うためのものであるという使途が明らかとなつていて、三ツ本は、大蔵大臣秘書官で、右金員は、大蔵大臣官邸の費用の支払に充てられ、結局、その利益が被告人に帰属する関係にあつたので、被告人のことも念頭になかつたわけではなく、これを受領した二宮の取計いによつては、あるいは、出捐者たる自己の名を明らかにして右金員が被告人に交付される場合もあり得べく、そのような場合には、右金員が、前記二宮に対する金員出捐の趣旨に併せて、大蔵大臣で、復金委員会会長を兼ね、官界の有力者である被告人との人的結合を一層緊密にすることによつて、財界における自己の将来の発展に資することに役立つものと考えていたのである。

他方、二宮としては、右金員は、親友である日野原が、三ツ本の前記窮状を救うために、二、三十万円の金員を調達してやらなければならない立場にあることを了承して、自己のために出捐したものと考えていたもので、日野原が被告人に贈るために右金員を自己に交付したものとは考えなかつたのである。もつとも、右金員は、一面においては、三ツ本が大蔵大臣秘書官であり、同人が官邸費用の不足に苦しんだことによつて生じた窮状を救済するためのものであつたから、結局その利益は、被告人に帰属する関係にあり、二宮としても、このような関係は知つていたものである。しかし、二宮としては、自己の取計いにより、日野原の名を明らかにして右金員を被告人に交付することによつて、大蔵大臣として復金委員会会長を兼ねていた被告人と日野原との間の人的結合を一層緊密にし、日野原の財界における将来の発展に資することもあり得ると考えて、日野原が右金員を出捐したものであるとまでは、思い至らなかつたのである。

(2)  日野原から右金三十万円を興銀で受領した二宮は、直ちに、電話で、三ツ本に連絡し、興銀秘書課次長斎藤賢二に右金員を預け、三ツ本が来たらこれを渡してもらいたいと依頼しておいたのであるが、右連絡によつて興銀に来た三ツ本と副総裁室の入口で出会い、同人を同室内に招じ入れたが、来客を待たせてあつたので、三ツ本に対し、秘書課の斎藤君のところへ金が来ているから持つて行くようにといつただけで、直ちに、来客に会うため応接室の方へ出て行つたのである。三ツ本は、興銀の秘書課で、右斎藤賢二から、右金員を受け取り、大蔵大臣官邸に持ち帰つたのであるが、二宮に前記のような愚痴話はしたことはあつても、金員調達の依頼をしたことはなく、二宮が右金員を渡すに際し、右のように簡単に持つて行くようにといつただけであつたのと二宮が自分にくれるわけはないという先入観があつたので、二宮と被告人との間に了解ができていて、単に被告人に届ければ足りるという意味で右金員を渡されたものと信じて、これを受領したのである。なお、その際、三ツ本は、二宮に、右金員の出所や性質については何も尋ねなかつたのである。

(3)  被告人は、昭和二十二年七月末頃から八月にかけて、三ツ本から、二、三回官邸費用の不足分の支払に充てるべき金員を渡してもらいたいとの催促を受け、暫時待つてくれなんとかするからといつておいたのであるが、八月半過頃から、興銀理事辻村正一、元興銀副総裁末広幸次郎ら興銀関係者に、興銀の傍系会社である共立株式会社から、興銀の内規や慣例によつて支給さるべき金二十万円を下らないと予想されていた退職慰労金を引当てにして、二、三十万円を借り受けることができないであろうかと相談し、あるいは、その借受についての口添を頼み、興銀副総裁の二宮や人事部長の正宗猪早夫らに対しては、右退職慰労金が早くもらえないであろうかと尋ねたりした結果、興銀関係者から、相談するから暫く待つてくれとの返事があつたのである。右の返事を待つているうち、同月下旬頃に至り、民主党総裁芦田均から二十万円程都合してくれないかという依頼を受けたので、これを承諾し、興銀関係者に依頼していた右の金員のうち、二十万円を芦田総裁の分に廻そうと考えるに至つた。そして、二宮副総裁に対し、さきに辻村理事に依頼したと同様に、将来興銀から支給さるべき退職慰労金を引当てにして、共立株式会社から一時融通してもらえないであろうかと話して、金策を依頼したのである。その後、三、四日から一週間以内に、大蔵大臣官邸で、前記のような経過で、二宮から現金三十万円を受領して来た三ツ本が、被告人に対し、二宮から金が届いた旨の簡単な報告をして右金員を交付したので、被告人は、右金員は、共立株式会社から融通してくれたものと信じて、これを受領し、その保管を三ツ本に任せたのであつて、その受領当時、右金員が日野原の出捐したものであることは全然知らなかつたのである。被告人は、その翌日、金二十万円を芦田総裁に届け、金十万円は、官邸費用の支払に充てるため、三ツ本に渡したのである。

なお、被告人は、大蔵大臣に在職中、制限会社令所定の賃金の借入に関する許可事務、臨時資金調整法所定の設備資金の借入に関する許可事務並びに普通銀行及び復金その他の特殊金融機関に対する監督事務に関する職務権限を有し、大蔵大臣として復金委員会会長を兼ね、復金に対し、一般的監督権を持つとともに、一定の融資案件について、審査、承認の権限を持つ復金委員会の会長として、復金委員会の会務を総理し、同委員会の幹事及び書記を指揮する等の職務権限を持つていたものであり、復金から昭電に対する石炭関係の融資の一部、昭電の肥料関係の設備資金のうち、第二次追加予算五億五千五百二十万円に対する臨時資金調整法及び制限会社令による各許可、復金委員会の承認、復金その他の金融機関から昭電に対する各融資の貸出実行手続は、すべて、被告人が大蔵大臣に在職し復金委員会会長を兼ねていた間に行われ、その間、日野原は、昭電社長であつたのであり、同第三次追加予算十二億八千四百二十三万六千円に対する臨時資金調整法及び制限会社令の各許可申請手続、制限会社令の許可、うち二億五千万円についての復金委員会の承認及び復金から昭電に対する融資の実行並びに昭電の肥料関係の運転資金に対する復金委員会の融資及び債務保証等に関する承認及びこれに基く復金その他金融機関の融資の実行の大部分は、被告人が大蔵大臣に在職し、復金委員会会長を兼ねていた間で、日野原が昭電社長であつた間に行われたのであるが、被告人は、右昭電の石炭関係の融資及び肥料関係の設備資金の第二次追加予算及び第三次追加予算についての臨時資金調整法及び制限会社令による各許可、復金委員会の融資及び債務保証等に関する承認及び復金その他の金融機関の融資の実行並びに肥料関係の運転資金に対する復金委員会の融資及び債務保証等に関する承認及びこれに基く復金その他の金融機関の融資の実行に関しては、日野原から、なんらの依頼を受けたこともなく、また、右各事項に関し、なんら尽力したこともなく、右金員は、右各事項と無関係に授受されたものである。

以上のとおり、被告人は、右金員を大蔵大臣及び復金委員会会長たる自己の職務行為やこれと密接な関係がある行為について受領したものではなく、従つて、被告人の右職務に関し受領したものではないから、被告人の右行為は、刑法第百九十七条の収賄罪を構成しない。

(三)  被告人が大蔵大臣及び復金委員会会長として中内幾太郎から昭和二十二年九月現金二十万円、同年十二月現金三十万円、昭和二十三年二月現金三十万円を各収賄したとの公訴事実に関する判断

被告人が、中内商事株式会社(以下中内商事と略称する)等の社長であつた中内幾太郎から、(1)昭和二十二年九月二十三日現金二十万円、(2)同年十二月上旬現金三十万円、(3)昭和二十三年二月二十八日大蔵大臣秘書事務取扱森津昌一及び大蔵大臣秘書官三ツ本常彦を介して現金三十万円を、それぞれ、受領した事実は、これを認めることができるが、右各金員を受領した経緯は、次のとおりであつて、右各金員は、賄賂とは認められない。

(1)  昭和二十二年九月二十三日の現金二十万円について

被告人は、参議院議員に当選したのち、中内から一万円位の祝金と祝品の贈与を受けたが、次いで、大蔵大臣就住後、昭和二十二年七月初頃、当時の自宅に中内の来訪を受け、大蔵大臣就住の祝金として金五万円の贈与を受けたことがあり、その節、中内は、被告人に対し、政治資金援助の意あることを告げ、同年八月初頃、大蔵大臣官邸に被告人を訪ねた際、改めて、被告人に対し、政治資金を援助する旨の申出をしたので、被告人は、その都度、中内の好意を容れ、必要があるときは改めて配慮を願う旨答えたところ、被告人は、当時の民主党幹事長竹田儀一から、同年八月、九月にかけて、二、三回にわたり、金二十万円の政治資金の調達を依頼されたので、同年九月十八日、大蔵大臣秘書官三ツ本常彦に命じて、中内商事東京事務所へ連絡をさせたところ、当時長野県下に旅行中であつた中内は、同月二十日大蔵大臣官邸に被告人を訪ねたので、被告人は、中内に対し、竹田儀一から右依頼のあつたことを述べて金二十万円の出捐を求め、中内は、被告人の右申入を承諾した上、同月二十三日午後現金二十万円を大蔵大臣官邸に持参したので、被告人は、居間兼応接室でいつたんこれを受領したが、中内に対し右金員の用途を明らかにするため、同人が大蔵大臣官邸に来るに先立ち、竹田儀一に連絡して来邸を求めておいたので、右金員を右居間兼応接室の卓子の上に置いたまま、同所に竹田儀一を案内して中内に紹介し、その場において、竹田儀一に右金員を受領させたのである。

(2)  同年十二月上旬の現金三十万円について

昭和二十二年十二月上旬片山内閣の改造が行われ、国務大臣林平馬が辞住し、その後任として、当時民主党の幹事長であつた竹田儀一が、同月四日国務大臣に任ぜられ、運輸大臣苫米地義三が辞任し、竹田儀一の後任として、同月八日民主党の幹事長となり、また、苫米地義三の後任として北村徳太郎が運輸大臣に任ぜられたのであるが、被告人は、同月二、三日頃、既に幹事長を辞し、国務大臣に任ぜられることに内定していた竹田儀一から、幹事長交替に際し、幹事長在任当時の党関係の支払を済ますについて、金三十万円の調達を依頼されたので、これを承諾し、その頃、前記中内との間の政治資金援助の約束に基き、同人に対し右依頼の趣旨を伝えて金三十万円の出捐を求め、中内は、これを承諾した上、同月上旬、金三十万円を大蔵大臣官邸に持参し、被告人は、同人からこれを受領したのである。

(3)  昭和二十三年二月二十八日の現金三十万円について

昭和二十三年二月十日片山内閣は総辞職し、同月二十三日芦田均に対する国会の内閣総理大臣指名が確定したので、被告人は、芦田内閣組閣費用の調達と大蔵大臣官邸関係の費用の支払を必要とするに至つたため、中内との間の前記政治資金援助の約束に基き、同月下旬三ツ木に対し、中内に金三十万円を調達してもらうように依頼し、三ツ本は、同月二十七日中内商事東京事務所に赴き、被告人の右依頼の趣旨を伝えたところ、中内は、これを承諾したが、たまたま、手許に現金がなかつたため、翌日再び受け取りに来るようにと答え、翌日三ツ本の使として中内商事東京事務所に赴いた森津昌一は、中内から現金三十万円を受け取つて来て、大蔵大臣官邸で三ツ本に渡し、被告人は、同日同所で、三ツ本から、右金三十万円を受領したのである。

なお、被告人が中内から請託を受けた事実又は右請託について尽力した事実があるか否かの点については、次の事実が認められるに止り、しかも、これらの事実と右各金員の授受とは、なんら関係がなかつたのである。

(1)  大蔵省国有財産局長に対する紹介名刺の交付

被告人は、昭和二十二年八月下旬頃、大蔵大臣官邸において、中内から国有船舶の一時使用の認可に関し大蔵省国有財産局長に面会したいから紹介されたい旨の懇請を受け、当時の秘書官であつた三ツ本に命じて自己の名刺に中内幾太郎を紹介するから引見されたい旨の文言を記入させ、中内に対し、大蔵省国有財産局長舟山正吉宛の紹介名刺を交付させたが、中内は、当時その紹介名刺を使用しなかつた。

(2)  大蔵大臣官邸における午餐会の開催

被告人は、かねてより、中内から、東京へ進出して事業を経営するにつき、東京の財界、金融界の人々に知合を求めておきたいという希望を告げられており、また興銀の副総裁以下及び復金の副理事長以下の幹部で興銀在勤当時から懇親の間柄にあつた人々を招待して、大蔵大臣就住の披露かたがた従来の厚誼を謝し、懇談する機会を得ようと考えていたところ、昭和二十二年十月初旬頃、政務も小閑を得たので、大蔵大臣官邸に宴席を設け、これに興銀及び復金の幹部の人々を招待し、その機会に中内をも招待して右幹部の人々に紹介し、中内が将来融資を受ける場合等の便宜を得させようと考え、三ツ本にその準備を命じ、また、招待すべき者の人選をし、同月十八日正午興銀から副総裁二宮善基、理事佐分利一武及び同辻村正一を、復金から副理事長工藤昭四郎、理事森寛造及び融資部長湊守篤を、中内側から同人及び介添役として相談役薄田美朝を、それぞれ、招待して午餐会を開催した。当日は、定刻頃に、右興銀及び復金の幹部の人々並びに中内及び薄田美朝が大蔵大臣官邸に参集したが、被告人は、所用のため外出していたので、三ツ本から右官邸の応接室において、中内を興銀及び復金からの出席者に紹介して、被告人の帰邸を待つたが、午後零時三十分頃になつても、なお帰邸しなかつたので、三ツ本は、出席者を食堂に案内して食事に移つたところ、午後一時五十分頃、食事もほぼ終了した際、被告人が帰邸して午餐会に出席し、その後約二十分を経て午後二時十分頃散会となつたが、午餐会の席上、被告人は、その遅参を詫びるとともに、興銀在勤以来の厚誼を謝し、なお、中内は、北海道で水産物とその輸送に関する事業を経営しているが、今回東京で事業を経営することとなつたので、よろしくお願いするとの挨拶をし、もつて、中内に対し将来融資その他につき事業上便宜を与えられるよう懇請し、中内も、政府から国有船舶の払下を受けて自己の事業に資したい計画を持つているから、よろしくお願いするとの挨拶をし、もつて、将来融資その他につき事業上便宜を与えられるよう懇請したのである。

しかし、右のように、被告人が、将来融資につき便宜を与えられるよう懇請したとしても、当時においては、融資になんら特定性も具体性もなく、大蔵大臣あるいは復金委員会会長たる被告人の職務に関する融資斡旋行為に当らず、融資斡旋の一態様とも解せられないのである。

(3)  中内産業の興銀への融資申込

中内は、昭和二十二年十月頃、小樽市にある中内産業の本店から、年末に冷凍魚の原料である鮮魚類を購入する資金として、金五百万円調達の依頼を受け、同年十二月十日頃興銀に赴き、理事佐分利一武の紹介によつて融資担当の理事辻村正一に面会し、右の資金を調達したい旨の希望を述べたところ、同理事は、興銀では、融資することは困難であるから、従来の取引銀行である北海道拓殖銀行(以下北拓と略称する)東京支店に申し入れては如何、日銀の融資斡旋部でその斡旋を依頼する途もあることを告げた。そこで、中内は、北拓東京支店に赴き、右の希望を述べたが、容れられなかつたので、同月十六、七日頃、日銀融資斡旋部に赴き、その斡旋によつて、北拓東京支店及び興銀が共同で半額ずつ引き受け、金額は両行で合計三百万円とする融資を受けることとなり、興銀においては、同月二十九日、北拓東京支店においては同月三十日、それぞれ、禀議決裁があつたのである。

右融資に関しては、三ツ本は、興銀で中内に共同融資をすべきかどうかを検討している際、中内から右融資の見込について意見を求められたので、同月下旬、興銀に赴いて辻村正一に面会し、右融資について、興銀側の調査の状況、融資の見込等を問い合わせ、同人から、その融資については、現在調査中で、年末融資といつても、普通ならば、年末までに間に合わないかも知れないが、ちようど、他の案件で北海道支店が中内の信用状態を調査した書類が届いていて、それに基いて調査しているから、年末までには間に合うかも知れない、ただ、北海道の関係があるので、北拓と共同融資になるであろうとの返答を得たので、右の趣を中内に伝えたのである。しかし、三ツ本は、中内のために融資の斡旋をしたことはなく、右の問合せも、被告人から命ぜられた結果によるものではなく、被告人は、中内から右融資の斡旋を依頼されたことも、三ツ本に対し右融資の斡旋を命じたこともなかつたのである。

(4)  中内の復金への融資申込

中内は、昭和二十三年二月頃、興銀の佐分利理事の紹介によつて、当時復金の融資部第二課長であつた大原栄一に面会し、戦時標準型続行鋼船二隻と特殊輸送艇(S・S艇)二隻とを買い受けて使用するについて、復金から右続行鋼船の買収費約金二千五百万円、右特殊輸送艇の買収費及び改造費約金千五百万円合計約金四千万円の融資を受けたいという希望を申し入れた。その後、右融資については、中内及び中内商事専務取締役宮内三郎らが、右大原栄一ら復金職員との間に折衝を続け、中内は、同年五月二十八日中内商船株式会社(以下中内商船と略称する)を設立し、右宮内三郎は、同会社の専務取締役に就任したが、中内商船よりは、特殊輸送艇に関する融資はこれを申し出ないようになり、たまたま、同年七月下旬、復金と運輸省海運総局、船舶公団及び船主協会と右続行鋼船に関する復金の融資方針を協議した結果、続行鋼船については、原則として、建造費の四〇%乃至五〇%に当る額の融資を船主に肩替りさせて、船主と船舶公団との共有とするが、中内商船外二会社は、権利買収会社であるから、別途取扱とし、建造費の四〇%乃至五〇%に当る額の全部を復金からの融資をもつて充てず、その資力に応じて適当に自己資金を持ち出させた上肩替りを認めることとし、中内商船に割り当てられた続行鋼船二隻(第十一幾久丸及び第十二幾久丸)については、船主持分率を四〇%とし、右趣旨を同年八月十八日復金融資第一部長市田禎蔵から各支所に通達したので、中内商船においては、同月二十七日、復金に対し、同会社が割当を受けた右続行鋼船二隻に対する船主持分譲受資金千三百四十四万円のうち金百五十万円を自己資金とし、残額金千百九十四万円につき借入申込書を提出した。右につき、復金において審査の結果、自己資金を金三百万円とすべきものと認め、数回にわたり宮内三郎らと折衝を重ね、同年十月半頃に至り、宮内三郎らは、これを承認したので、復金委員会幹事会に付議する段取りとなつていたところ、たまたま、中内が本件で検挙されるに至つたため、右借入申込に対する許否は、留保されることとなつたのである。

右融資に関しては、三ツ本は、中内が、続行鋼船の買収費並びに特殊輸送艇の買収費及び改造費につき復金に対し融資の希望を申し入れたのち、昭和二十三年二月頃、中内から右融資の見込につき意見を求められた結果、復金に赴き、復金融資部長密田博孝及び同融資部次長岡一雄に対し、中内からの融資希望の申入につき、融資の見込等を問い合わせ、これに対し、密田博孝及び岡一雄は、当時、いずれも、中内から右のように融資希望の申入があつたことを知らなかつたので、岡一雄は、たまたま来客があつたため、事務担当の融資部第二課長大原栄一から事情を聴取しておくからといつて席を立ち、密田博孝は、大原栄一に中内が希望する融資の内容及びこれについての意見を聴取した上、買収費、改造費等の全額の融資を望むのは、復金の融資の方針に反するから、所要資金の二分の一あるいは三分の一は自己調達をしなければ、復金の融資の対象とすることは困難である旨を答えたので、三ツ本は、右の趣を中内に伝えたのである。しかし、三ツ本は、中内のために融資の斡旋をしたことはなく、右の問合せも、被告人に命ぜられた結果によるものではなく、被告人は、中内から右融資の斡旋を依頼されたことも、三ツ本に対し右融資の斡旋を命じたこともなかつたのである。

以上のとおり、被告人が中内から請託を受けた事実又は請託について尽力した事実は、右(1)及び(2)の範囲に止まるばかりでなく、これらの事項と前記各金員の授受とは、関係がなかつたものと認められるのである。

これを要するに、被告人が本件各金員を受領したことは、これを認めることができるが、右各金員は、中内との間の政治資金援助の約束に基き、単なる政治資金として受領したものであつて、被告人は、右各金員を、大蔵大臣あるいは復金委員会会長たる自己の職務につき受領したものでないのはもとより、これと密接な関係がある行為につき受領したものでもなく、従つて、被告人の右各職務に関し受領したものではないから、被告人の右各行為は、いずれも、刑法第百九十七条の収賄罪を構成しない。

(四)  被告人が大蔵大臣として小沢専七郎から昭和二十二年十二月現金五十万円を収賄したとの公訴事実に関する判断

被告人が、昭和二十二年十二月中、当時衆議院議員で、日本製塩株式会社(以下日本製塩と略称する)の前社長であり、日本国民食糧株式会社(以下国民食糧と略称する)等二十数社を統率していた小沢専七郎から、現金五十万円を受領したことは、これを認めることができるのであるが、右金員受領の経緯は、次のとおりであつて、右金員は賄賂とは認められない。

片山内閣の大蔵大臣であつた被告人と民主党所属の衆議院議員で、同党の東北代表の総務となつていた小沢専七郎とは、昭和二十二年八月頃から知合となり、小沢は民主党内の諸派の融合を図り、同党の統一を維持するため、被告人を中心として政治活動をする同志的結合である巨人会の結成を主唱し、被告人の賛成を得、当時、民主党幹事長であつた竹田儀一も、その趣旨に賛成し、また、小沢の説得によつて、長谷川俊一、宇都宮則綱ら二十数名の同党の衆議院議員が、巨人会に加入したのであるが、それまでに、同年十月から十一月にかけて、東京都千代田区永田町の小沢の事務所や大蔵大臣官邸等で、小沢、長谷川、被告人ら数名の者の準備的な会合が数回開かれ、主として小沢が発案して、その費用は、小沢が負担すること、被告人を中心として順次規模を拡大して政治活動をすること、長谷川俊一を大蔵大臣秘書官及び巨人会の事務局長とすること等について打合せや協議を進め、同年十二月十日頃巨人会の第一回の会合が開催されるに至つた。その間、長谷川俊一が同年十一月中旬頃から十二月上旬頃まで、その選挙区である郷里の岐阜県に帰つていたので、小沢は、長谷川との間に書簡を往復して、被告人に年末を期し政治資金として金五十万円を贈与することの可否等を相談し、長谷川の賛成を得たのであるが、その実行について、小沢と長谷川との間に協議が行われないうちに、前記巨人会の第一回の会合が開催されるに至つたところ、右会合は、長く継続していた第一国会が同年十二月九日終了し、引き続き第二国会が召集され、直ちに、翌昭和二十三年一月二十日まで休会となり、会員のうち帰郷を急ぐ者が多かつた関係もあつて、第一国会終了の日の翌日たる同年十二月十日頃大蔵大臣官邸で開催され、右会合の途中、小沢は、席を外して、被告人に対し、代議士のなかには、明日郷里へ帰る人もいるし、今夜にも発ちたいといつている人もいるが、そういう人たちに金を包んで持たせてやりたいから、金を出してもらいたい、なお、新聞記者にも金を包んでやつてもらいたいと申し出たので、被告人は、これを承諾し、秘書事務取扱をしていた森津昌一に命じ、金包を作らせたところ、当時、被告人の手許には十一万円位しかなく、二万円ずつ五包程しか金包ができなかつたので、これを見た小沢は、これだけでは半端で全部に渡せないから、今日は止めよう、とりあえず新聞記者だけに渡そうといつて、新聞記者だけに金を渡し、会員に金を渡すことは、取り止めたが、被告人の手持金が意外に少いことを知つた小沢は、かねて巨人会の中心人物である被告人に対し年末を期し政治資金として金五十万円を贈与しようと考えていたことを早速実行することとし、その翌日である十二月十一日頃現金五十万円を携えて大蔵大臣官邸に赴き、巨人会の活動資金に充てられたいといつて、これを被告人に交付し、被告人も、その趣旨を了承して、これを受領したものである。

なお、小沢は、日本製塩、国民食糧等の会社と極めて密接な関係を有し、事実上これらの会社を統率していたもので、日本製塩が国民食糧と連帯して、興銀から、昭和二十二年十二月二十六日付融資部起案第五六七号、同月二十七日決判済の稟議書によつて、設備資金として金五百万円の融資を受けるについて、小沢の後任として日本製塩の社長となつた井出豊から、同人が同年十一月終頃から十二月初頃興銀に右融資の申込をした直後、右興銀に対する融資の関係書類の控を交付され、これを大蔵大臣たる被告人あるいは同大臣秘書官三ツ本常彦に交付して、被告人から更に興銀へ口添してもらうよう取り計らつてもらいたいとの融資斡旋の依頼を受け、右依頼を了承し、右関係書類の控を持参して大蔵大臣官邸に赴き、被告人に対し、井出豊の右融資斡旋の依頼の趣旨を伝え、被告人の興銀に対する口添を依頼したところ、被告人は、小沢の右依頼の趣旨を了承したことがあるのである。しかし、被告人は、単に、興銀副総裁二宮善基に対し、井出を紹介したことがあるに止まり、右融資につき、右依頼の趣旨を実現するため、自ら又は秘書官たる三ツ本に命じて、興銀の二宮、辻村、小西ら右融資の関係者に口添、依頼、斡旋等の行為をしたことがなく、また、三ツ本も、自己の発意に基き、右興銀の融資関係者らに対し、口添、依頼、斡旋等の行為をしたことはないのである。そして、前記金員の趣旨のうちには、日本製塩が興銀から受けた融資について、被告人が大蔵大臣としてその実現に尽力した謝礼の趣旨は含まれていなかつたのである。

以上のとおり、本件金員は昭和二十二年十二月十一日頃巨人会の政治資金として、右興銀からの融資が成立する十数日前に、右融資とは無関係に、小沢からの被告人に贈与されたものであるから、被告人は、本件金員を大蔵大臣たる自己の職務行為につき受領したものでないのはもとより、これと密接な関係がある行為につき受領したものでもなく、従つて、被告人の職務に関して受領したものではないから、被告人の行為は、刑法第百九十七条の収賄罪を構成しない。

(五)  被告人が大蔵大臣として梅林時雄から昭和二十三年一月現金三十万円を収賄したとの公訴事実に関する判断

被告人が、当時衆議院議員で、梅林土木株式会社(以下梅林土木と略称する)の元社長や取締役会長で、当時相談役であり、大分地区占領軍工事建設本部(以下建設本部と略称する)の本部長であつた梅林時雄から現金三十万円を受領したことは、これを認めることができるが、右金員受領の経緯は、次のとおりであつて、右金員は、賄賂とは認められない。

昭和二十三年二月十日片山内閣が総辞職し、同月二十一日国会において次期の内閣総理大臣指名の選挙が行われ、衆議院においては、芦田均を、参議院においては、吉田茂を、それぞれ、内閣総理大臣に指名する旨の議決をしたため、同月二十三日両議院の協議会において協議が行われたが、その意見の一致を見なかつたので、憲法の規定により、衆議院の議決をもつて国会の議決とされ、芦田均に対する内閣総理大臣の指名が確定するに至つた。右のように、同年二月二十一日衆議院において、芦田均が次期の内閣総理大臣に指名された結果、芦田内閣の成立が確実となり、その組閣については、相当の政治資金を必要とする情勢に立ち至つたので、梅林時雄は、この際、更に応分の政治資金を芦田総裁に贈与して平素の知遇に答え、併せて、政界における自己の地位の向上、確保を図るため、右衆議院における指名のあつた翌日頃である同月二十二日頃現金三十万円を携えて芦田均を外務大臣官邸に訪れ、「組閣が始まるから金がお入用でしよう」といつて同人に右金員を贈与しようとしたが、同人においては、これより先、既に三回にわたつて梅林時雄から直接合計金百五十万円の政治資金の贈与を受けており、この上、更に組閣に際して若干の金員の贈与を受けることは相当でないと考え、当時、党の費用を出し入れするときには、大体被告人が仲に立つて党務部の係と金のやりとりをしていたことに想倒し、梅林時雄に対し、今は差支なくやつて行けるから、場合によつては栗栖君の方へでも預けておいたらどうかといつてその申出を受けなかつた。

そこで、梅林時雄は、同月二十三、四日頃大蔵大臣官邸に被告人を訪れ、右芦田の意向を伝えて右金三十万円を被告人に預けたが、その後、芦田内閣の組閣に当つてその資金の調達を担当していた梅林時雄及び民主党代議士荒木万寿夫の両名は、組閣費用の不足に備えるため、被告人に前記三十万円の返還を求めたところ、被告人は、芦田の了解を得た上、これを承諾したので、荒木万寿夫は、同月末頃大蔵大臣官邸に赴き、大蔵大臣秘書官三ツ本常彦を通じ右金員を受領したのであつて、梅林時雄が芦田に贈与しようとした現金三十万円と被告人が受領したのち荒木万寿夫に交付した現金三十万円とは、同一のものであつたのである。

なお、被告人が梅林時雄及び綾部健太郎から梅林土木又は建設本部に対する政府支払の促進等についての依頼を受けた事実の有無並びに被告人がこれについて尽力した事実の有無の点については、(1)被告人は、昭和二十二年夏頃、梅林時雄が、梅林土木を含む建設本部所属の土建業者を代表する者数名とともに、建設本部及び梅林土木に対する政府支払の促進を陳情するため、大蔵大臣官邸に被告人を訪問した際、同人らに面接してその陳情を受け、同年秋頃には、大蔵省管理局長長沼弘毅に対し、梅林土木に対する政府支払の状況について尋ね、また、政府支払の促進を当局に陳情するため、同年十月頃上京した建設本部総務課長本条守及び梅林土木経理課出納係長兼資金係長後藤富士夫の両名が、同年十一月初頃、梅林時雄の勧奨、指導により、政府支払渋滞の実情を詳記した陳情書を持参し、梅林時雄に伴われて大蔵大臣官邸に被告人を訪問した際、梅林時雄から、梅林土木及び建設本部に対する政府支払促進の陳情を受け、政府支払渋滞の実情は親しく右両名から聴取されたい旨懇請されたところ、被告人は、多忙であることを理由とし、長沼管理局長を招致するから、その実情は直接同局長に説明されたい旨いい遺して外出したが、その際、部下をして同局長を同官邸に出頭するよう連絡させ、梅林時雄も、これと相前後して同官邸を立ち去つたところ、間もなく官邸に到着した同局長が、陳情は大蔵省管理局において聴取すべき旨の意向を洩らして即刻大蔵省に赴いたため、右両名は、やむなく右管理局に同局長を訪問して、右政府支払の促進を陳情したことがあり、また、被告人は、昭和二十二年九月頃国会において、芦田均の斡旋で面会した綾部健太郎から、梅林土木を含む占領軍関係業者のため政府支払促進の陳情を受け、その際大蔵省の係員によく調査させる旨回答したが、その後も、同年十二月頃までの間に、綾部から、二、三回にわたつて、国会その他において前同様の陳情を受け、(2)被告人は、昭和二十二年十二月十四日九州における民主党の大会に出席するため東京を出発し、同月十七日別府市に至り、同夜同市所在梅林土木の富士見寮に立寄つたところ、その際、梅林時雄、梅林土木の社長梅林襄の両名から、梅林土木が大分合同銀行から融資を受けられるよう何分の配慮に預かりたい旨の依頼を受けたので、これを諒承し、同夜被告人の宿泊する同市の旅館白丁苑において開催された栗栖大蔵大臣歓迎会に出席していた同銀行頭取後藤三郎に対し、同旅館において被告人の帰りを待つよう連絡させた上、案内かたがた被告人に従つて白丁苑に同道した梅林襄とともに、同旅館において後藤頭取に面会し、さきに大蔵省において決定した年末金融対策実施の方針に従い、同頭取に対し、梅林土木を含む大分県下の占領軍関係の土建業者が政府支払が遅れて金融に困つているようであるから、政府支払の促進はするが、貴方も業者の仕事の内容をよく調査した上、できるだけ金融の面倒をみてもらいたい、必要があれば枠外融資をしてやつてもらいたい、政府支払の決定はあつたが、現実に支払を受けられない者への枠外融資について、大蔵省において、日銀からその資金を補填する旨の証明書を日銀を通じて発行、交付する旨述べ、もつて、梅林土木を含む同県下の占領軍工事関係業者のため、これら業者に対する同銀行からの融資を斡旋するとともに、右証明書の発行、交付を約したことは、これを認めることができるのであるが、本件金員の授受と被告人の右各行為との間には、なんらの関係がなかつたのである。

以上のとおり、被告人は、昭和二十三年二月二十三、四日頃大蔵大臣官邸で、梅林時雄から本件金員を受領したのであるが、その授受の趣旨が賄賂であるという点は、これを認めることができず、右金員は、芦田均の意向に従い、梅林時雄から被告人に預けられた政治資金であると解せられるから、被告人の右行為は、刑法第百九十七条の収賄罪を構成しない。

三、法令の適用

被告人の前記一の(一)に判示した行為を法律に照らすと、武田から(1)の現金五十万円を収受した行為及び同人から(2)の現金五十万円及び金額五十万円の小切手一通を収受した行為は各刑法第百九十七条第一項後段に該当し、これらは、同法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文、第十条により、犯情の重い右(2)の収賄の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役八月に処し、同法第二十一条により、原審における未決勾留日数中三十日を右本刑に算入することとするが、情状に鑑み、刑の執行を猶予するのが相当であるから、同法第二十五条第一項により、この裁判の確定の日から一年間右刑の執行を猶予し、被告人が収受した賄賂は、全部既に費消されて没収することができないから、昭和三十三年法律第百七号による改正前の刑法第百九十七条ノ四後段により、被告人からその価額金百五十万円を追徴し、原審における訴訟費用中証人河本文一及び同宗知武に支給した分は、刑事訴訟法施行法第二条、旧刑事訴訟法第二百三十七条第一項、第二百三十八条により、これを被告人に原審相被告人武田要輔と連帯して負担させることとし、当審における訴訟費用中証人河本文一及び同内野健治に支給した分は、刑事訴訟法施行法第二条、旧刑事訴訟法第二百三十七条第一項により、これを被告人に負担させることとする。

本件公訴事実中武田からの各収賄事実以外の部分は、前記二において判断したとおり、いずれも、犯罪の証明がないものであるから、これらの部分については、刑事訴訟法施行法第二条、旧刑事訴訟法第三百六十二条後段により、被告人に対し、いずれも、無罪の言渡をすべきものである。

第四裁判所の構成

(裁判長判事 下村三郎 判事 高野重秋 判事 真野英一)

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